第474回 「私の固まった心を動かしたもの」

こんにちは。E類生涯スポーツコース在籍、跳躍ブロック4年の笠原理央と申します。読んで頂ければ幸いです。

 ご存知の方も居るかと存じますが、私は大学1年時に持病のため1年間休学しておりました。当時の1年間の私の変化を部活動を絡めながら、掻い摘んで記させて頂きます。病気名や症状は此処では割愛させて頂きますが、療養に要した1年間は酷く辛い時間でした。起きていることが地獄で、寝ている時間が唯一気の抜ける時間でしたが、症状のせいで寝付くことも儘なりません。父の単身赴任先での療養でしたが、父は仕事で忙しく、1日の殆どを1人でテレビを見て過ごしました。テレビが面白い訳ではありません、ただ病気の症状を紛らわせる何かが欲しかったのです。父との1日数回のやり取りを除き、一年近く誰とも会話しない日々が続き、私の中で知らぬうちに大きな変化がありました。それはコミュニケーション能力の欠落、加えて、自然と笑えなくなりました。人と話すのが怖くなり、孤独を強く感じる様になりました。同時に、中学や高校時代に友達と自然に会話して笑う、無意識にしていたことが出来なくなりました。この悩みが、私の部活に戻る決意を揺るがせ、私を弱くしました。部活に行っても、誰とも上手く話せない、隅の方で不恰好な作り笑いをしている自分に嫌気が指しました。当時の私の陸上へのモチベーションを遥かに凌ぐほどに、「孤独」というほポッカリと空いた穴は大きく深いものでした。ひたすらに陸上から逃げました。空いた穴を何かで埋めようと一日中ゲームして、無駄な日々を多く費やしました。自分が悪い方向へ進んでいる自覚はありましたが、もがく事なく日々は過ぎていきました。自分が大嫌いでした。

 いつの間にか4年生に進級し、私の気持ちを揺さぶる出来事が次々と起こります。1つ目に、父が倒れて脳の手術をしたことです。ある日突然、父が倒れて緊急手術が必要だから神奈川県の病院に向かってくれと母から電話がありました。新幹線に乗り小田原へ向かう最中、最悪の事態を考えました。もし父がこのままで死んでしまったら、、、、不甲斐無くて涙が止まりませんでした。私には父に自慢できる事も、頑張っている姿を見せる事も、何もない、何も出来てない。仕事を休んで、出場する全ての大会を見に来てくれた父の姿を思い出しました。ずっと縛り付けられていた感情が少しずつ動き出しました、

 2つ目に、ある日の部活での土井颯馬のひと言です。高校3年の時、進学先に悩んでいた際に颯馬から学芸に行こうと誘われたことがキッカケで学芸大を受験しました。ずっと一緒に大会出たい気持ちがありましたし、入学時には颯馬と切磋琢磨できると期待を膨らませていた程、陸上から逃げ続けていても陸上部に在籍し続けた理由でもありました。そんな彼が、ある日の部活で、「やっぱお前いるとちょっと楽しいわ」と言いました。彼からしたら何気ないひと言だったと思いますが、また少し私の気持ちは明るい方へと動きました。

 3つ目に、4年外村直之の関東インカレでの姿です。直之は関東インカレに先立って開催されていた記録会で肉離れをして、怪我が完治しておらず、その後の試合を考慮して、4年を中心に直之の出場を止め、結果として直之は3本パスし大会を終えました。同期が直之に出場辞退の声がけをしている時、試合後に話し合ってる時、私は声を掛けることが出来ませんでした。それは、辛い練習を乗り越えてきた仲間だけが立ち入れる空間であり、私が言える言葉など何も無いと感じたからです。直之とは、昔、跳躍ブロック3人で全日本インカレ出場したいなと夢を語ったことがありました。実際に、颯馬も直之も全日本インカレの標準記録を切るほど強くなりました。自分の不甲斐なさを痛感すると同時に、コイツらと最後にベスト出したい、コイツらに俺の全力を見て欲しいと強く強く感じました。そして、心の何処かでもう陸上はしないと思っていた私は、もう一度陸上と向き合うと決心しました。

 何年も要し、私は大学での陸上生活をスタートさせました。私が逃げていた期間に、仲間が積み上げた物を取り戻せるとは思いません。しかし、今後、新たに自分らしく積み上げていきたいです。1年間の休学期間があるため、来年度も学芸大に在籍しますが、陸上部は今年度での引退を予定していますので、残り少ない時間にはなりますが、自分に厳しく、自分なりに精一杯、少しずつ努力も仲間との友情も積み上げていこうと思います。

 思いつきで記したため、長々と纏まりのない文章になってしまいました。ここまで読んで頂いた方、有難う御座います。