第480回「ニンジンを買うということ」

失礼します。この度コラムを書かせていただく、E類生涯学習・文化遺産教育コース2年、男子跳躍ブロックの塚田奏です。東京学芸大学陸上競技部に入って感じたこと、について書いたのですが思いのほか長くなってしまって申し訳ないので、最後の数行だけでも読んでもらえたら嬉しいです。

一人暮らしをしていると料理をする機会が増えますから、当然スーパーへ行くようになります。すると、例えばニンジンを買うにしても、まとめ売りかバラ売りか、外国産か国産か、国産にしても地元の野菜があるならそっちにしてみようとか、あまりの選択肢の多さに私は面食らってしまうわけです。でも、どれを選択しようが「自由」なわけで、まとめて買って「ニンジンって全然飯進まねぇな‼︎」とか文句言いながら、冷蔵庫を占拠する大量のニンジンを睨むことになっても、それは「自由」だから一応問題はないのです。それに比べて「おつかい」は楽でしたよ。頼まれたものを買っていけばよかったですから。

東京学芸大学の陸上競技部は「自由」です。部員みんな、個々各々が目標のために考えて考えて考えて、色々試行錯誤しながら本当に一生懸命に練習に取り組んでいます。いろんな時間を犠牲にして。祝日でもたとえ僅かな空きコマの時間でも。
でも、競争の世界、まして個人競技の世界での「自由」って実はメチャメチャ怖いんですよ。自らの行為を主体的に選択する代わりに、結果に対する責任は「オマエ」にあるからな、という了解がそこにはありますから。買いすぎたニンジンぐらいの責任でしたら食べてしまえばよいのですが、陸上競技ではそう簡単にはいきません。
自分が練習している間にも、周りは凄い速さで成長していきます。もたもたしているとすぐに追い抜かれてしまう。気づくと何段階も上のレベルにいるなんてこともザラです。すると、どこからともなくやってきた赤犬に「敗北者」の烙印を押されてしまう。これが結構キツくて。かなり心にくるものがあるんですよ笑
「自分」という物凄く厄介な相手もいます。1年間必死に努力してきても自己ベストが更新できていないと、なんともイヤな事実が否応無しに突きつけられてしまう。「君、この1年成長してないよ」って。「数字」という絶対的な根拠を持ってくるから反論の余地すら残してもらえない。こうなるともうなんと言うか、もし陸上競技に神様がいるとすれば、その神様からの強烈な「拒絶」を感じるのです。神様のその巨大な手のひらで「ドン!」って、突き飛ばされるような、そんな拒絶感。

「自由」な個人であるということは、裏を返せば、自らの選択によって「私」を証明しなければならない。他者からの選択という形では「私」の存在を証明できないのです。ですから当然、「言われた通りの練習ちゃんとやってましたけどぉ⁈」とか「自分だけが悪いんすかねぇ⁈」といった責任の転嫁ができない。それが「自由」というやつです。「おつかい」とは違いますね。
学芸大学の「強い人」にはみんな共通して、自らの選択に大きな自信を持っているように思えるのです。そして大会になると「みんなオレを見ろ‼︎」「ワタシが1番目立て‼︎」と顕示欲をむき出しにして、それぞれ「私」を証明しようとする。「いきまーす!」という合図で視線を集めて、なんなら手拍子なんか求めたりして。そして「数字」という根拠を持ってきて「私」を証明し続けるわけです。
そんな「オレがワタシが‼︎」という個人が群れ集う集団は、意外にも強くて良い組織を構成しているのです。触発というのでしょうか。相乗効果というやつなんでしょうか、詳しくはわかりませんが。でも、男子跳躍ブロックのスローガンでもある「全員が主人公」とは、そういうことを期待するものなんだろうと思います。

長くなりましたが、要するに、私は自らの選択に自信を持ちたいわけです。「自由」を大いに利用してやりたいと思うのです。そして、学芸大学にはそんな「自由」が達者な人が多いわけで。だから、「学大は負けない」。そう思うのです。