こんにちは。この度コラムを書かせていただく、東京都立東大和高等学校出身、A類保健体育選修4年の櫻井愛貴(サクライアイキ)です。中学から陸上競技を始め、現在は混成競技を専門にしています。この度は部員コラムを書く機会をいただきありがとうございます。何を書くか悩みましたが、「自由な数字」という拙い文章を書こうと思います。思いのほか長くなってしまったことに加え、回りくどい文章になってしまって申し訳ないです。最後の数行だけでも読んでいただけると幸いです。
「行きます。よーい、はい!」「23,24,25…」
トラックを駆け抜けるたびに、マネージャーさんの掛け声が背中に突き刺さる。私にとってあの単調な数字の連なりは、なぜだか心にずっしりと残るのだ。「数字」そのものはただの記号に過ぎないのに、それが“時間”と結びついた瞬間、逃げ場のない現実として迫ってくる。
これでも私は大学生ですから、朝起きる時間も寝る時間も、全部自分の「自由」にしていいことになります。スマホのアラームを6時にセットし、翌朝には「あと5分だけ…」とスヌーズを連打して、気づけば30分も経っていた——なんてこともしょっちゅうです。そんなことになっても、時間の使い方に関しては「自由」ですから仕方ありません。遅刻しそうになり自転車を全力で漕ぐ羽目になって「教員になったらもっと早起きなの無理かも..」と思っても、それは私が選んだ5分なので一応問題はないわけです。逆に子供の頃に親から「もう寝なさい、もう起きになさい」と言われていた頃は楽でしたよ。その通りにすれば、済む話ですし責任さえありませんから。
東京学芸大学陸上競技部は「自由」です。部員各々が目標のために考えて考えて考えて、多面的に試行錯誤をしながら直向きに練習に取り組んでいます。時には娯楽や休養の時間を犠牲にして陸上競技に人生の時間を投じています。100分の1秒——たったそれだけの差によって、1年分の努力が意味あるものになったり、無意味になったりする。「自由」な個人であるということは、裏を返せば自らの選択によって自分を証明しなければいけない。「なんで自分だけ!?」とか「同じ練習していますけど!?」といった責任を誰にも転嫁することができないのです。それが「自由」なんだと思います。朝起きる時間をお母さんに言われていた頃とは違いますね。もし、1年前と同じ「数字」なら「君、この1年間成長してないよ」と無慈悲な烙印を押させる。そんな時、今までの努力してきた日々が一瞬でぽっかりと欠落するような感覚に陥るのです。競技スポーツは残酷だ。時間をかければ必ず報われるわけではない。だが同時に、俗にいう「強い人」は例外なく時間を積み重ねている。早朝から走り、夜は補強をこなし、食事や睡眠まで管理をしている。なぜなら、「自由」な何百時間、何千時間という営みを「数字」というほんの数秒に変換するために。
だからこそ、私はそんな記号に過ぎない数字を「意味ある数字」にしたいのです。責任ある記録に。スタートラインに立った時、私の耳には再びあの数字が響くでしょう。「On your marks…Set」と共に刻まれる「1,2,3,…」それはもはや単なるカウントではなく、練習の積み重ねや仲間との時間、諦めそうになった瞬間すら全てを含んだ、私自身の歩みの証明なのです。
数字は冷酷で、努力を裏切ることもある。しかし、裏を返せば数字ほど正直なものはありません。偶然や誤魔化しで手に入る記録は一瞬で消えますが、地道に積み上げてきた時間は確かな数字となって私を証明する。「自由」に過ごす1日の5分の選択が積もり積もって1年後の「0,01秒」を削り出す。そう思えば、「自由」とは、決して気ままな選択を主体にして生きることではなく、選択した自分に「責任を持つこと」なのだと気づきます。
意味を持たないはずの「数字」に意味を吹き込み、責任ある「記録」にするのは私自身なのです。だからあのカウント、流し読みは、まだ私の中では終わっていない。——「26.27…」