第513回「綺麗な薔薇には棘がある」

こんにちは。男子跳躍ブロック所属、B類社会専攻4年の菅野純輝です。この度はコラムを書く機会をいただいたので、陸上競技をする中で思ったことについて書こうと思います。

「自分、何でこんなことやってんだ?」。ふとそう思う瞬間ってありますよね。例えば、行きたくもない飲み会で無理に笑ってる時とか、二次会のカラオケで聞いたこともない曲を知ってる感じで聞いてる時とか。私はかれこれ10年以上も陸上競技を続けてきましたが、陸上競技も、そんな瞬間の連続でした。
 陸上競技は、とにかく辛い。練習もキツいし、何より頼れるものが自分しかいない。仲間と励まし合うことはできても、結局すべての責任と結果は自分に返ってくる。辛い練習。報われない努力。そんなことが続くと、「陸上なんかやっていて、何の意味があるんだろう…」、そう思わずにはいられませんでした。

そこで、「じゃあ『意味があること』って何だ?」と考えてみると、本当に意味があることって、そんなにないんですよね。食事と睡眠くらいでしょうか。実は、私たちの日常は「意味がないこと」で溢れている。別にやらなくてもいいことがたくさんある。そして、おそらく陸上競技もその一つでしょう。別に100mを10秒台で走れなくても生きていけるし、将来それが役に立つことはまずありません。

では、私たちは「意味があること」だけをしていればいいのか。「食って寝るだけ」を繰り返していればいいのでしょうか。ええ、確かにそれで私たちは生きていけます。でも、私たちの一生は、食って寝るだけではあまりにも長い。長すぎる。だから、本当に意味のあることだけをしようとすると、私たちは必ず「暇」に襲われることになるのです。

中米のエルサルバドルという国には、テロリスト監禁センター、通称CECOTと呼ばれる施設があります。これは凶悪な罪を犯したギャングが収監される刑務所で、食事と睡眠以外、何もすることができません。重労働や教育プログラムもなし。壁と凶悪犯に囲まれたまま、ただ死ぬのを待つだけ。まさにこの世の地獄です。ですが、みんな生きてはいけます。食って寝ることはできます。でも、それでいいわけがないでしょう?

 人間にとって「暇」ほど辛いものはありません。何もせずにいると、頭の奥の方から「暇だなぁ」という声が漏れてきて、やがてそれは叫びとなります。そして、私たちはじっとしていられなくなる。何かに夢中になりたくなる。そう、「暇つぶし」をしたくなるのです。
 私たちは暇に耐えられず、暇つぶしをします。そして、それはなるべく「苦しい」方が良い。あまりに楽なものは、暇つぶしになりません。時間と労力がかかるほど、良い暇つぶしになる。だから私たちは、苦労して働くし、働いて得たお金を使って、行かなくてもいいような場所を訪れる。高い山にわざわざ登るし、遠い国にわざわざ旅行する。そしてその旅行も、何か大変な事件とかがある方が、意外と良い思い出になったりする。そういった苦しくて、大変で、やりがいのあるものが、良い「暇つぶし」になるんです。

 そう、だからこそ、私たちは陸上競技に励む。みんなめちゃくちゃ走るし、めちゃくちゃ跳ぶし、めちゃくちゃ投げる。それは意味がなく、苦しいから。「暇だ」という感覚を忘れて、夢中になれるから。ライオンはゲームも筋トレもしないけど、私たちはイライラしながらゲームをするし、汗水垂らしながら筋トレもする。それは意味がなく、苦しいから。まさに、意味がないとは人間らしいことであり、苦しみとは生きている証なのです。ああ、人間ってなんて惨めなんでしょう。

かつてイエスは「人はパンのみにて生くるにあらず」と言いました(『マタイによる福音書』4.4)。そう、人はパンだけで生きることはできない。バラも求めましょう。私たちの生は、バラで飾られなければなりません。そしてそのバラには、痛々しくて立派な「棘」がなくてはならないのです。なんか、人生って最初からバラ色っぽくないんですねぇ。

少し話がバラついてしまいましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。